プロローグ
気付けば、闇の下にいた。
新月の夜、月の存在すら呑み込んだ夜の闇は、冷たい雫を天から只管に落として。
私の、仰向けに倒れた身体をチクチクと痛めつける。
(―――……痛い、)
黒々として分厚く、重い雨雲に侵蝕されている空を、薄らと繋ぎ止められた意識の中でぼんやりと見上げながら、ふと思う。
そして、震える腕をゆっくりと、自分の身体に這わせる。
痛いと思うはずだ。
冷たいコンクリートに横たわる、冷えた自分自身の体には―――穴がぽっかりと、開いているのだから。
自分自身でも、意識がまだ残っていることに驚いてしまうほどはっきりと、身体は欠けていた。
痛い。
痛い。
でも、声が。
(声が…もう、出ない…かも)
痛いと、脳はきちんと、鈍いながらも痛覚を捉えていて。
咽喉の奥から、絡みつくように鉄の味が込み上げてくるけれど、そんなことを気にかけている余裕すら、今の私にはない。
だんだんと、視覚やら痛覚やら、色々な感覚が無くなっていく。
身体に這わした腕は傷口の上から動かすことすら出来ず、ただただ流れ湧き出る生暖かい液体が、掌から指先に掛けて絡み付く。
―――私は、死ぬのか。
そう、薄れゆく意識の中で、冷静に思う。
何故、こんな状態になってしまったのか。
何故、私はこんな所で惨めにも死にかけているのか。
誰が、やったのか。
そんな考えも頭の隅に浮かんだものの、すぐに消え去った。
空は黒雲の侵蝕によって、重々しく私の狭い視界の中に広がっている。
人が死にかけているというのに、辺りはひどく静かで、人一人通らない。
こんな、月の光すら射さない暗闇の中、私は孤独に死んでいくのか。
「……ッ、な…ぃ…」
鉄の味が絡まる咽喉を、最期の気力を振り絞って震わせる。
驚くほど、その声は小さく、掠れていた。
「死、にた…な…ッ、ぅ、ごほッ……!」
死にたく、ない。
誰もいない暗闇で、私は空に縋るように呟いた。
その時―――。
「助けて、あげましょーか?」
カラン、コロン。
そんな音とともに降ってきた声が、私のすぐ傍で止まった。
もうほとんど、景色は見えてはいなかったけれど。
コンクリートを打つ雨の音すら、薄れていたけれど。
その、場違いなほどひょうきんなその声と、その声の主らしき人影は、不思議とはっきり捉えることができた。
その人は、地面に仰向けに倒れる私に傘を掲げて雨を凌ぎながら。
天から私を、見下ろした。
「貴女が望むなら、助けてあげますよ?」
声からして、私の顔を覗き込んでいるのは、男の人らしかった。
その人は、私の身体に空いた“穴”を目にして、あららー、と声を上げる。
「また随分と…派手にやられちゃいましたねー」
喰われちゃいないみたいですがね。
そう言って、またカランコロン、と足下で音を奏でた。
「……助け、て…ッ、くれ…、の…?」
「助けますよー」
視線を私の顔に戻して言う声は、とても軽いものだった。
けれど。
「貴方はまだ―――消滅しちゃあいけない、存在ッスから」
一瞬だけ、はっきりと見えたその人の顔は、ひどく歪んでいたから。
暗闇の中、独り息絶えようとしている私を見つけてくれた人。
死に逝く私を、最期に看取ってくれる、人。
(……こんなに、安心するなんて)
諦めてしまっていたわけでは、ないけれど。
もっと生きたかったと、考えてしまった。
「―――ぁ…り、がと……」
一言そう零すのが、私の精一杯だった。
例え、彼の言葉が偽りであったとしても。
今、死へと真っ直ぐに突き進んでいる私にとって、天の救いにも等しい言葉だったから。
他にも言いたいことはあったけれど、とりあえず、今1番心に込み上げた一言だけを伝えた。
雨は冷たくなった私の身体を、容赦なく叩きつける。
月は、その姿すら見せない。
「ッ…、……―――」
「!」
薄らと笑みを浮かべると、少し驚いたように息を呑み、目を丸くするその人。
その表情を最期に、私の意識はとっぷりと、闇へ溶け込んでいく。
いつの間にか泣き止み始めた雨雲の隙間から、月の光が射しこむことはなかった。
君の最期が、始まりの合図。
(大丈夫。君の最期は、無駄じゃない)
*2009/11/07 加筆修正・再UP。
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