prologue.
4月―――。
風に煽られた桜の花弁がヒラヒラと舞い散る風景にどことなく懐かしさのようなものを感じながら、私は新居であるマンションを出た。
向かう先は、幼少期からの親しみあるところ。
自分の家とそこをひたすら行き来していたのは、もう1年ほど前になる。
目的地へと向かう道中、花見を楽しみながらゆっくりと歩みを進めていく。
見渡す町並みは、以前とちっとも変わらない。
その様子に自然と頬から力が抜けて、1人でいるにも関わらず口元が緩んだ。
(歩いて行ける距離でよかった。前の家に比べたら全然だけど……ご近所には変わりないもんね)
桜吹雪だけではなく町並みそのものにも懐かしさを感じてそれに浸りながら、弾んでいく足取りによって微かにずれてしまった眼鏡を軽く上げ、ただひたすら歩き続ける。
段々と目的地へと近付くにつれて、足取りはどんどん軽くなっていく。
これからこの道を頻繁に利用していくことになるのだと考えると、何だか胸がくすぐったい。
黙々と足を動かし続け、目的地はすぐそこ。
目先に見える角を曲がれば、この目に見えてくるはずだ。
すぐに目にしたいがために、わざわざ眼鏡をかけて捉えやすくしてきたのだ。
(あと、少し……)
今にも走り出してしまいそうな足を落ち着かせるのに、私は全神経を集中させる。
だって、本当に。
ずっとずっと、逢いたかったから。
「―――!」
目指していた曲がり角を曲がっていざ目的地、と意気込んだ瞬間。
見覚えのある、懐かしい、焦がれていた大きな背中。
視界の先に見えたそれに、まさかこんなあっさりと見つけられるとは思わなかったその姿に、思わず立ち止まった。
小さい頃からずっと、何度も何度も見てきた背中。
昔は私と大して変わらなかった身長は日に日に大きくなっていって。
更には家の仕事柄逞しくなっていったその身体は、1年前よりまた更に逞しく大きくなっているように感じる。
「……ッ」
言い知れない懐かしさを滲み出すそれを目にし、私は居ても立ってもいられず地面を力任せに蹴った。
やっと逢えた。
ここまできた。
ずっとずっと、離れていたこの1年、駆けつけたくて仕方なかった。
メールなんかじゃなく、電話なんかでもなく、直接顔を合わせて、目の前で、話を聞いてあげたかった。
ずっと昔から、私を傍で支えてくれた人。
―――もう二度と、逢うことはないと思っていた、人。
「っ、厳ちゃん……!」
目の前の背中に飛び付きたい衝動を必死に抑え込んで、あと一歩という近さで立ち止まった私。
身体が震えるほどの喜びを総べて込めて名前を呼ぶと、その人はくるりと振り返り、私を真っ直ぐに見下ろしてくる。
(ああ、何か、また大きくなってるなァ)
私と1つしか違わないはずの年齢を飛び越えた、その貫禄のある姿を見上げる私。
そんな私の姿を捉えた目を大きく見開いて、いつになく驚いた表情で、その人は口を開いた。
「―――……?」
一仕事終えた帰りだったのか、軽トラックの荷台を整理していたらしい幼馴染み。
年の割には随分と達観して異様な落ち着きを持っている幼馴染みの、驚きでこれでもかと強張った珍しい顔つきがおかしくて、私はただでさえだらしなく緩んでいた口元を更に緩め、笑った。
「厳ちゃん、変な顔ー」
「……突然帰ってきといて酷ェ言い草だな」
「ははは、ごめん。本当はお家にお邪魔して驚かせる予定だったんだけど」
厳ちゃんが働き者だって、失念してたよ。
そう言って肩を竦めて見せると、幼馴染みは1つ溜め息をついた後、苦笑を浮かべた。
それを見て、私はまた懐かしさを感じる。
「まあ何にせよ……久しぶりだな、」
苦笑しながらもそう言って頭を撫でてくる幼馴染み―――武蔵厳に、私は笑って頷いた。
幼少期から、家が近所で親同士の親交が深かったこともあって一緒にいることが必然と多かったという、絵に描いたような“幼馴染み”の関係を続けてきて、もう10年以上になる。
現在17歳である彼は世間一般的には高校2年生であるはずなのだが、私が離れていたここ1年の間に家業を継いだらしく、今では立派な『武蔵工務店』の大工だ。
―――それが何となく、私には物悲しかったりするのだけれど。
そんなことをふと頭に過らせながらも、私はとにかく今の状況を喜ぶことにした。
大きくて武骨な掌で驚くほど優しく頭を撫で続ける幼馴染みを見て、私は先程まで我慢していた衝動を解き放つ。
「お、っと……?」
ぎゅうっと、その逞しい身体に抱き着いた。
いつからこんなに体格に差がついてしまったのだろう。
昔は私なんかよりずっと子供っぽくて、泣き虫だったのに。
そんなことを感慨深げに思いながら目の前の胸板に額を擦り付けて、引き締まった腰を腕で締めつける。
それでも、苦しいと嫌がることも後ろに倒れることもなく平然と私を受け止めて、少し困惑した声で名前を呼んでくれる彼が、やっぱりすごく好きだと思った。
「厳ちゃん」
「ん?」
「私……―――」
だからこそ、もう。
ここから、離れたくなんてない。
「……とりあえず、上がってくか? 家」
「!」
「おふくろや玉八達にも顔見せに来たんだろ?」
何かを言いかけて、それでも言葉が出てこなかった私に、厳ちゃんは優しくそう言った。
その言葉に、胸元に埋めていた顔を上げると、「仕方ねぇな」とでも言うような幼馴染みの顔があって。
ポンポンと軽く私の頭を叩いてから、厳ちゃんは自分の腰に回った私の手を取った。
「行くぞ。おふくろ達もきっと喜ぶ」
「う、うんっ」
そう言ってやんわりと私を引き離した後、手を引いて自分の家の中へと導いていく厳ちゃん。
大工らしく手拭いが巻かれた頭が揺れて、私からはまた、後姿だけが見えるようになった。
帰ってきた、本当に。
私が望んだ、この場所に。
後悔なんてない。
私ももう高校生で、自分の意思を貫き通す意地もプライドもある。
もう、反旗を翻すことができなかった頃の幼い私じゃ、ない。
「ああ、そうだ、」
「? 何?」
手を引かれながら大人しく後ろをついて行っていた私を呼んで、厳ちゃんは家の中へと踏み入れかけた足を止めて振り返ってきた。
唐突の行動に首を傾げて見せると、厳ちゃんはその大人びた顔で優しく笑って、言う。
「―――おかえり」
これからどんなことがあっても、もうこの場所からは離れない。
厳ちゃんからの言葉を聞いて、私は改めてそう決意し、だらしなく笑い返した。
第一歩の“ただいま”。
(そういえば、厳ちゃん前会った時より更に老けたね)
(……そう言うお前は、前会った時と同じでちっこいままだ)
(失礼な!)
(お前が言うな)
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