PROLOGUE




私は1人、改札に向かって駅を歩きながら欠伸を噛み締めていた。
帰宅ラッシュのこの時間帯、人通りが多い中でいい歳した女子高生が、駅を歩きながら大口を開けるわけにもいかない。


「……長居してたら遅くなっちゃったなぁ」


私はそんなことを呟きながら、携帯電話を制服の上着のポケットから取り出し、時間を確認。
午後755分―――確実に、父親が騒ぎ出す時間だ。

……というか、健全な女子高生に「暗くなる前に帰って来い」なんて、普通言わないよね…。


「電話はー……もうできないし、メールするか」


ふと辺りを見渡すと、いつの間にかもう改札を通ってホームへの階段を下りているところだった。

我ながら、何故気付かなかったのかが不思議だ。

おまけに転びもしない。
昔から、考え事や1つのことに没頭すると、他のことが意識に入らない性質らしい。


(そのうち事故るな、私)


そんな自分の身を呑気に案じながら、ホームの、人が少ない場所を確保して携帯電話の画面に集中した。


〈今、駅のホーム。すぐ帰る〉


長文を打ち込むのも面倒で、簡潔に且つ用件は伝わるように文字を打ち込んで、絵文字も顔文字もない素っ気ないメールを父親に送信する。
すると、数分も経たないうちに制服のポケットに突っ込んでおいた携帯電話が震えた。

早いな!

少し驚きながらも携帯電話を取り出して、メールボックスを開くと、案の定、それは父親からで。


〈そこで待ってろ! 父さんが今から電車よりも早く迎えに行ってやる!〉
「……」


アンタはアレか。
スーパーマンか何かか。

よりにもよって“あの父親”にメールしたことを今更ながらに後悔しながら、私はただ苦笑を零した。

我が家を統率していた母が、病院へ入院して早3年半。
母にベタ惚れの父は、母が入院した当初、文字通り『魂の抜け殻』のような状態で、家業で生き甲斐でもある道場もそっちのけだった。
母がいない喪失感と父が立ち直らない不安の中、母のいない代わりに私が家事全般を受け持つようになると、大分安心したように父は立ち直り、今では以前と変わらず道場の仕事にも目を向けている。

―――まあ、その分何故か過保護になって、ある意味悪化したことは言うまでもないが。


「夕飯、遅くなっちゃうなぁ……。君、騒いでるだろーな」


そんな常識の通用しない自由奔放な父と私の双子の兄・が、今は家を守っている。
兄のも父と負けず劣らずの性格で。


『早く帰ってこねぇと、いつか夜這いかけるからな』


とか、俺様且つ身勝手且つ理不尽なことを電話越しに言われて全力疾走して帰ったことも記憶に新しい。

てか、自分の妹に夜這いかけて何が楽しいんだ。
その前に、犯罪です。


―――……早く、帰んなきゃね」


そんなこんなで。

自由奔放な家族に挟まれた状態ながらも、私の存在場所はあるわけで。
何気なく、そう何気なく、平和な日々を過ごしてきている。


不意に、ホームに聴き慣れた放送が流れた。
私はそれに気づくと、携帯電話をポケットに突っ込んで一歩前に出る。

いつの間にか私の後ろには、私と同じように帰宅する人達が列をなしていて。
列の最前列にいる私が線路側に顔を向けると、電車の走ってくる特有の音が近づいてきていることが分かった。


(やっと帰れるよォ……)


ふぅ、と溜息にも似た声を漏らして。
座席空いているかな、などと考えながら、迫ってくる電車を待った。


そんな時だった―――。




トン。




「……え……?」


何かに優しく、しかし力強く背を押されたかと思うと、私の足はホームから離れていた。
線路側に投げ出された身体に、突然の浮遊感。


(ああ…―――死ぬのか、私)


線路に向かって落ちていく私に気付いてか、電車はけたたましい音を立てて鳴いていた。
しかし、今更そんなことをされても遅いし、宙に投げ出された私の身体はどうしようも出来ない。

電車は、真っ直ぐこちらに向かって突き進んでいる。

ホームの人達の悲鳴やら叫び声やらが遠くに聴こえる中、私は1人、人の思考とは妙なものだ、などと呑気に考えていた。

思ってもみなかったことが起きたと思うと、周りの動きが鈍く見えたり、周りの音がどんなに近くとも遠くに響いたり。
パニックを起こすかもしれないな、と思っていた頭は、意外と冷静だった。

徐々に迫ってくる電車を見つめながら、私は次に来るだろう衝撃に備えて、ゆっくりと目を閉じた。





***************





江戸、新宿―――。
かぶき町は本日、大雨に見舞われていた。
まだ昼時だと言うのに薄暗い辺りは、それだけで気分を害するものだ。

ザアザアと降りしきる水滴に、買い物に出かけていた『スナックお登勢』のママであるお登勢こと寺田 綾乃は、傘から薄暗い空を微かに仰ぎ見て、溜息とともに紫煙を吐き出した。
身に纏っている着物の裾は、既に雨で濡れて重くなっている。


「……ったく、こんなんじゃ物仕入れても客なんて来やしないじゃないか」


そんな裾を鬱陶しそうに蹴りながら、お登勢は歩く足を速めた。
大降りの日に、いくら繁華街と言えでも人通りはまばらで。
今夜は店休みにするか、などと考えながら歩く。

こんなことなら2階に住む、家賃を滞納した死んだ魚のような目をした若造でも荷物持ちで連れてくれば良かった、と後悔していると、自分の店の看板が視界の端に入った。


「道程が遠く感じるなんて、らしくないねェ……―――ん?」


ふと、歩みを緩めて自分の店の前を見ると、そこには何かの影。
その影はどうやら、自分の店の前で倒れているようで。
思わず、止めていた足を小走りするように進めて影に歩み寄る。




それは、人だった。




「! ちょっとアンタ、大丈夫かイ? しっかりしな!」
「……ッん…」


それは―――変わった格好の少女だった。

お登勢は少しの間、その奇妙な少女を目にして驚いていたが、慌てて横たわった少女の身体を揺する。
閉じた双眸を上げることはないにしろ、微かに反応を示した少女にお登勢はホッと胸を撫で下ろした。

少女の身体は小さく、雨に打たれていたせいか冷え切っていた。
顔色も良くはない。

お登勢は人のいい自分に少し笑みを零しながら、少女を店の奥にある座敷へと連れて行くことにした。


突如現れた奇妙な少女に、少し、只ならぬものを感じ取りながら―――。








ホームから世界へのさようなら。

雨の中での拾い物。


(促したのは、誰?)









*2009/11/07 加筆修正・再UP。