PROLOGUE



幼いながらに、人間の歪みをこの目に見てきた。
記憶があれば―――記憶さえあれば、少しはこの人生も変わったのだろうか?


「―――、下がってなさい」
「……うん」


軍服を身に纏った男達の、叫び声。
私の名を呼んで、私を守るようにして自分の背後へと促す、男。
その男が前に差し出す、手。

全てを、当時の私は虚ろに、ただ眺めていた。




そう―――それが、世界だと思った。




「貴様ッ……!!」

遮られた怒声。
鈍い爆発音で、真っ白になる視界。

不意に肩を掴んできた手に、すでに慣れ親しんだ体温に、何故か寒気がした。


「さ、行きましょう、
「……」


狂喜じみた笑いを堪えながら言う彼に、私は薄く笑みを零す。


私には、彼が全てだった。

彼の行動は全てが正しくて。
彼の言葉は全てが真実で。
彼の温もりは、全てが暖かくて。




私には彼が―――“神”にさえ、見えていた。




「……何かいいこと、あった……?」


その場を後にしながら不適に笑い声を上げる彼に、恐る恐る訊ねる。
すると、彼はニッコリと、いつものように微笑んでくれた。


「ええ―――とても、いいことが」


頬に滑る彼の手が思いのほか冷たくて、らしくなく私はまた、寒気を感じた。





**********





「―――ッ……!!」


不意に、勢い良く上体を起こす。
相変わらずの夢見の悪さだ。

額に触れると、普段はあまりかくことのない汗が薄らと滲み出ていた。


「……シャワー…」


浴びよう、と呟きかけてハッと辺りを見渡すと、そこは軍部の仮眠室だった。
自分以外に人はいない。
扉の向こうから、微かに笑い声が聞こえてくる。


(そういえば…―――)


昨日は久々にイーストシティへ寄った為、知人の多い軍部に1泊させてもらったのだ。

勿論、仮眠室内にシャワーなどあるはずもなく。
仕方なしに、ベッドから下りてタオルで顔を拭く。









「―――……まいったな」


最近見た夢の中でも、我ながら性質の悪い夢を見たと思う。
おかげで、昨日知人達との久方ぶりの再会で盛り上がっていた心が、どんどん深みに沈んでいく。

私は1人、静かな仮眠室の中で溜息を漏らす。
すると、不意に扉をノックする音が耳に届いた。


「おはよう、


はい、と小さく答えると、扉が開いて知人の1人―――リザ・ホークアイさんの顔が現われた。
彼女はこの東方司令部で大佐補佐官を務めている、れっきとした軍人だ。
ちなみに、地位は中尉、だったと思う。


「おあよーございまふぅ……」
「まだ眠たそうね。大丈夫?」

欠伸を噛み締めながら挨拶する私を見て、リザさんはおかしそうにクスクス笑った。


「昨日、皆夜遅くまで歓迎してくれたんで…」


久々に疲れました。

そう言うと、またリザさんは笑った。

着替えを済ませて身支度を整え、リザさんと供に仮眠室から出ると、もう既に知人の軍人達はあくせく働き、自分達の持ち場へついていた。
戻ってきたリザさんと、やっと起きてきた私に気付いて、皆挨拶してくれる。


「おっ、おはようさん」
「よー、よく寝れたか? 姫」
「おはようございます、ブレダさん。ハボックさんも。……まだ眠い」


そりゃそうだ、と、私を『姫』などと称して笑うのは、ジャン・ハボックさん。
その横でコーラを飲みながら、私に負けじと眠そうに仕事をしているのが、ハイマンス・ブレダさん。
2人とも、士官学校時代に同期だったらしいく、仲が良い。
そして、地位も仲良く2人して少尉。

2人とも、昨日私に無理矢理酒を飲まそうとしてリザさんに怒られていたが、普段は妹のように可愛がってくれるいい人達だ。


「フュリーさんもファルマンさんも、お疲れ様です」
「おはよー、ちゃん」
「おはよう、


ケイン・フュリーさんとヴァトー・ファルマンさん。
フュリーさんが曹長で、ファルマンさんは准尉。
私が色々と調べ物をする時に情報やアドバイスをくれる、言わば先生みたいな人達だ。


「相変わらず眠そうな顔だね」
「軍人さんみたいに徹夜とか慣れてないんで」
「俺らだってねみーっての」
「酔い潰れて私より先に寝てたじゃん、ハボックさん達は」


各地の軍部を行ったり来たりしたことはあるが、一番この東方司令部が、いい。
ハボックさんやリザさんは、タメ口で話ができるほど親しくしてくれているし。

人の温かみも優しさも、ここには存在する。

私は、よいしょ、と近くの空いた机の上に荷物を置く。
それを見たハボックさんが、目を丸くして訊いてきた。


「何だ、もう行くのか?」
「うん。軍の人間でもないし……ましてや国家錬金術師でもない人間が、長居するわけにもいかないし」
「何遠慮してんだよ? 別に俺達は気にしねェのに」
「さっき私もそう言ったんだけど……この子、決めたら聞かない子だから」
「お、リザさんはよく分かってるー」


さすが、と漏らしながら荷物のチェックを始めようと、私が鞄を開けた時。




「―――ほう、君は私に挨拶もなしで旅立つ気だったのか?」




不意に、背後―――頭の上から聞こえた低い声。

聞き覚えのある声にピタッ、と動きを止めると、「あーあ」とか「げっ」とか言うハボックさん達の声が耳に届いた。
ギギッ、と機械的にゆっくりと後ろを振り返ると、そこには黒髪童顔の、顔に笑顔を張り付かせた男の姿。


「……」
「何だね、その顔は」
「……いや、朝からその(胡散臭い)笑顔を見ると、何だか気分が…」
「ははは。そんなに私の顔はハンサムかい?」
(まだ何も言ってないし)


明らかに気分が急降下している私を無視して、男は私の肩を慣れた手付きで掴むと、半ば無理矢理私の身体を反転させる。


「それはともかく。、挨拶は?」
「…………オハヨウゴザイマス、マスタング大佐」
「何で棒読みなんだ」
「気分」


表情を変えずに言ってのけると、男―――ロイ・マスタング大佐は、やれやれ、と額を押さえる。


「いやはや。嬢は相変わらず手厳しいね」
「別に、普通です。―――というか、『嬢』ってやめて下さい。ガラじゃないし……『姫』もね」
「ああ、そうだったね。失礼した。君が私をファーストネームで呼んでくれないのでつい、ね」


そう言いながらも顔付きや態度が全然謝罪の意を表していないことに、私は気付いていた。
この人がここ、東方司令部の一切を取り仕切っているとは、とても信じがたい。

世も末、である。(少し言いすぎかな)

私はただ重く溜息をつくと、ロイさんの手を引き剥がして、鞄を閉める。
もう、荷物のチェックをする気力すらなくなってしまった。


「また……今度はどこを飛び回るおつもりかな? 嬢は」
「さあ? まだ決めてない」
「えっ、大丈夫なのかい?」
「心配ご無用ですよ、フュリーさん」


荷物を机から下ろして、肩にかける。
そして、皆の方を振り返って、できる限り笑う。


「じゃあ、東方司令部の皆さん。お世話になりました」
「あー、また来いよ」
「まずい茶ぐらいなら出すぜ?」
「いつでも来るといいよ」
「あはは。よろしくー」


踵を返して、今度はリザさんに。


「あ、リザさんは大佐のお守り、頑張ってね」
「ありがとう、


そして、私の“恩人”に。


「また来てもいいですかね? マスタング大佐」
「ああ、いつでも。硬い仮眠室のベッドならいくらでも貸し出すよ」
「じゃあ、イーストシティでは宿いらずだね」

そう言って笑って、自分の手を見る。

―――包帯に包まれた、手。
そして、その手で一瞬、右目の瞼に触れる。


「……また、何か情報があったら、よろしくお願いします」


ロイさんだけではなく、最後は皆に言うと、いつものように笑顔で返してくれた。


長い旅だ。
手がかりも、痕跡もない。
記憶も、ない。

あるのは、微かに遺された、父だという人の記録のみ。


「じゃあ―――また」


これが。
私の、“記憶”と“大切なもの”を、捜す旅。








貴方という世界を飛び出して。

私は今も、生きている。


(自分の為に)(私という世界の為に)










*2009/11/04 加筆修正・再UP。