プロローグ
魔法界は、数年前の『例のあの人』の失脚以来整然とし、浮かれ続けていた。
浮き足立つ魔法使い達は後を絶たず、数年経った今でも『例のあの人』が失脚したあの日には、大掛かりなパーティーが当時ほどではないにしろ、あちらこちらで行われ続けている。
しかし―――人々が浮き足立つそんな中で、ピリピリした空気が漂う空間があった。
マグルからは隔離されたそこは、とても広大な広間になっていた。
そんな広間には目まぐるしい数の魔法使いがひしめき合い、何やら神妙な面持ちで不安げに囁き合っている。
「―――静まれ」
真っ白な髭を蓄えた厳格そうな老人が、質の高そうな紺色のローブを翻して、静かに、しかし広間中に響くようにはっきりと、ひしめき合う魔法使い達を制した。
老人の目の前を一直線に開けるようにして左右に並んでいる魔法使い達は、その声に一斉に言葉を濁し、暫くすると誰一人として口を開かなくなった。
そんな広間の様子を、老人から向かって左手側に座っていた、藍色の髪と橙色の瞳が印象的な整った顔立ちの若い男―――・キラースは、うんざりした表情で、誰の耳にも届くような大きな溜息をついた。
理由として挙げられるとすれば思い当たる節はいくつもあるが、強いて言うならばこの集まり自体が原因だろう。
この場にいる魔法使い達は、2つの純血魔法族だ。
老人達のいる上座から向かって右手に並ぶのは、魔法族の中でも高い地位に属す超名門の旧家、家である。
魔法界きっての、優秀で高貴な血を継ぐ家柄で、ほとんどの者がホグワーツのスリザリン寮出身であることも有名である。
―――その一方では、『闇の魔術』に精通する者が多いことも、専らの噂として残っているのだが。
その向かい側で、どこか不快そうに並んでいる魔法使い達―――こちらも名家と名高い、文武両道に優れた魔法族、キラース家の血縁者達だった。
ただ、家との大きな違いは、考えが穏やかで平和的、友好的な魔法使いの多い一族だということだ。
「今宵はまったく良い日だ。……否、良い日だったと言うべきだろうか」
老人は、家の現当主であった。
老人は左右に並ぶ魔法使い達をゆっくりと見渡しながら、険しい表情で語り始める。
上座には、今回の会合の主である人物が横一列に並んでいる―――その中に、かの有名なホグワーツ魔法魔術学校校長、アルバス・ダンブルドアの姿があることには気付いていた。
そして、ゆっくりと、その横にちょこん、と座っている小さな少女に目を移した。
少女はまだ4、5歳程で、神秘的な銀糸の髪と白銀の瞳が印象的な幼い子供だった。
しかし、その見た目とは裏腹にどこか人を遠ざけようとするような、感情のないような表情で、目の前の集まりをボーッと眺めている。
今回の会合の原因となったことが、ひと月前に起こった。
その事件はこの場にいる魔法使い達のみならず、イギリス中の魔法使いを震撼させた。
「ついひと月程前の出来事をもう耳にした者達もおるだろう。我が家に婿として迎えたキラース家御当主殿の長男、・の―――死についてだ」
ビクリ、と小さく肩を震わせた銀髪の子供の背を、ダンブルドアが大きな掌で優しく撫でつけるのが見えた。
は、不意に視線の先にいる老人の口から放たれた従兄弟の名を耳にすると、不快そうに眉間に皺を寄せて、向かい側に並ぶ高貴な印象を受ける魔法使い達―――家の血縁者達を睨むように見つめた。
「まったくもって悲しき出来事であった。氏は我が愛すべき曾孫・アクアとその……一人娘を遺して、何の前触れもなく突然、逝ってしまった」
「―――ッうぅ……!」
静まり返った大広間に、老人と、1人の女性の嗚咽が響いた。
老人はどこか申し訳なさそうに険しかった顔を崩すと、猫撫で声でその女性―――曾孫のアクア・を慰める。
アクアはの妻で、若くして一族に貢献した美しい容姿の女性だった。
「おお、おお。アクアや。さぞ悲しかろう、辛かろう。しかし、今日の会合はお前の未来の為に開かれたのだ。もう少し辛抱なさい」
「―――……どうでもいいが、さっさと話を続けてくれ。俺達はアンタ等みたいに暇を持て余してるわけじゃねぇんだよ」
そんな様子に不快感を隠そうもしないで冷たく言い放ったのは、誰でもない、だった。
の言葉に只ならぬ殺気を抱いた家の面々は、ギロリと一斉に鋭くを睨み付けるが、は相手にもしていないように素知らぬ顔をして見せる。
は、家が嫌い―――いや、憎かった。
尤も、全員というわけではないが、尊敬していた従兄弟のの死には不可解な点が多いと、は思っていた。
の知る限り、従兄弟のは突然死んでしまうような不健康な人間ではなかったはずだ。
ましてや、あんなに愛していた小さな一人娘を遺して勝手に死んでしまうような、そんな無責任な意識の持ち主でもなかった。
そのため、どうしても家の者達がに何かしらの危害を加えたか、はたまた見殺しにでもしたのだと思う他に、この言い様のない怒りを投げ出せる場が見つからなかった。
今にも杖を振りかざしそうな緊迫した空気を打ち砕いたのは―――ダンブルドアの穏やかな声音だった。
「これこれ、皆さん。2つの名家を繋ぐ大事な“渡し橋”を亡くしなさったお気持ちはよーく分かります。が、今回の会合はいがみ合う為の集まりではありませんでしょう」
「……ああ、ダンブルドア。貴方の言う通りだ」
コホン、と1つ咳払いをした老人は、殺気立っていたの人々を宥め落ち着かせると、一度鋭くを横目に睨み付けて、仕切り直した。
相変わらず、の妻・アクアは泣き続けている。
「・キラース、この際多少の無礼は許すこととしよう。……君も親族を亡くして気が動転しているのだ」
老人のその一言にのこめかみがピクリ、と引き攣ったが、は早くこの場を去りたい一心で何とか耐え抜いた。
「―――今回、両家に集まってもらったのは他でもない。氏とアクアの間にできた子……に、ついてだ」
そう言った老人の顔が一瞬強張ったかと思うと、家側が何やら動揺しているようにざわめき始めた。
老人はどこか、その“子”の名を呼ぶことを躊躇った様子で、苦虫を噛み潰したような顔付きだ。
その理由を知ってか知らずか、キラース家の人々は皆一様に、上座に座る―――先程の銀髪の少女を、哀れむような目で見ていた。
「氏は死の間際、我々に遺言を遺していった」
老人は少女を一瞥もすることなく、ただ淡々と言葉を紡いでいった。
ローブの懐からメモ用紙らしき羊皮紙を1枚取り出すと、一息置いて羊皮紙に書かれているだろう内容を読み上げ始める。
「『私は何も望まない。きっと、キラースの一族の者も、一切何も望まないだろう。ただ……ただ、これだけは願いたい』」
の頭の中に、唐突に、床へ伏しているの姿が浮かんだ。
「……『私の娘に、の名を名乗ることを許して欲しい。間違いなくあの子は家の子―――私とアクアの子だ。私の死後は、私が最も信頼を置いているアルバス・ダンブルドアに預けることになっている』」
の遺言をそのまま書き綴ったのだろう。
老人は震える声でそれを読み上げると、クシャリ、と指先で羊皮紙を握った。
「―――と、氏の遺言がこのように遺されている以上、それを通すのが我々のせめてもの義務であると考えている。氏が亡くなった今、我々に多大なる信頼を寄せてくださっているキラース家との繋がりを保つには、それしか手がない」
もちろん、家からの反論は絶える事がなかった。
何故なら家は、のあの小さな娘を怖れ、嫌っていたからだ。
そんな長い喧騒の声が響いて暫くすると、その様子を黙って見つめていたダンブルドアが立ち上がった。
辺りは水を打ったかのように静まり返り、多くの瞳がダンブルドアに集中した。
「以前、氏にこの願いを受けた時、わしは心から了承した。氏は両家の為を思い、こうした決断を下したのでしょう―――わしはいつでも、この子を迎えましょうぞ」
ダンブルドアには、やはり不思議な能力があるのだろうか。
人の心を惹きつける絶対的な力を感じたは、ニヤリと笑ってダンブルドアの意見に賛成した。
それを境に、キラース家も快諾し、家は渋々と言った様子ではあったが賛同したようだった。
老人はその様子を見ると、誰にも気付かれないように憎々しげに小さく拳を握った。
「では、これでお開き、ということになりますかな?」
「―――……そのようですな」
いつの間にか、外はとっぷりと闇に染まっていた。
今日という日ほど、夜が暗く見えた日はない。
「……」
少女は腰掛けている椅子の上で身を小さくしたまま、横目に窓の外で広がる漆黒の闇を虚ろな目で見た。
きっと、母達は、自分を厄介払いする機会を失って嘆いているだろう。
その証拠に、先程射るように睨み付けられた母の眼差しが、頭から離れない。
「―――」
「……?」
不意に、頭の上から穏やかな声が聴こえてきた。
自分に投げかけられた声にしては優しすぎるそれに、今呼ばれた名が自分のものだということに気付くのに時間がかかってしまった。
ゆっくりと振り返ると、そこには、3人の男が立っていた。
1人は、背の高い、紫色の長いマントを身に纏っていた。
自分と似た銀色の髪と長い髭の、半月型の眼鏡をちょこん、と鼻に乗せた老人。
その後ろには、先程の会合では見かけなかった、全身を真っ黒の服とローブ、マントで包み、ねっとりとした黒髪と鉤鼻、そして、土気色の肌に縦皺を刻む眉間が印象に残る男。
2人とも、一度どこかで顔を合わせたような記憶があった。
そして、その横には―――今は亡き父が、よく顔を合わせていた男。
「………?」
「久しぶり、」
小さく掠れた少女―――の声を聴き取った青年・は、自分を見上げてくる小さな子供を見て、ニッコリ微笑んだ。
その笑みを見て、強張っていたの顔が幾分緩んだのが分かる。
「今日はな、。と暫くの間一緒に暮らしてくれる人を連れてきた」
はテーブルの上にある紅茶セットを横目に見ると、「一緒してもいいか?」と優しく訊ねた。
も、それに当然のように、コクリ、と小さく頷いた。
達3人がそれを確認して椅子を手繰り寄せている間に、は自分の目の前に置かれたココアを飲もうと手を伸ばした。
カップを口に運んで一口飲むと、それがとても冷めていることに気付く。
「、この人達を知ってるか?」
「……こっちのおじいちゃんは、ときどき父さんにあいに来てた。こっちの人は…にあいに行くときによくいた」
「それだけ知っていれば十分だ」
舌足らずなの言葉に、隣に腰掛けたは満足そうに微笑んだ。
自分と他の2人に紅茶を淹れ、のココアを淹れ直してやると、は口元を歪めたままに言う。
「まあ、この際無礼講だが……こっちのじいさんはホグワーツ魔法魔術学校で校長をやってるアルバス・ダンブルドア。で、こっちの蝙蝠みたいなのは、俺の悪友のセブルス・スネイプだ。こんな陰険な顔しちゃいるが、ホグワーツの教員らしい」
「、貴様…ッ」
「まあまあ、スネイプ先生。無礼講、じゃよ」
の言葉に全身真っ黒の男―――セブルス・スネイプの、見事な眉間の皺が増えたが、ダンブルドアの穏やかな声で宥め付けられている様子を、は呆然と見つめていた。
一体、この人達は何をしにきたのだろうか?
できれば、今は、独りでいたかったのに―――。
「、わしと来るかね?」
「……?」
不意に投げかけられたダンブルドアの声に、は驚いて顔を向けた。
目の前の老人は、ニッコリと微笑んでいる。
たった、一言だった。
そのたった一言で、の中で何かが弾け、暖かい何かがジワリジワリと、広がってく。
「……わたし、めいわく、かけるよ……みんな言ってた」
「問題は無しじゃよ。年の大半はホグワーツ校内で過ごすことになってしまうが……ここにいるスネイプ先生や他の先生方も面倒を見て下さることになっとる。なーに、心配はいらんよ」
「俺も顔出すぞ」
は顔を俯かせ、ちらりと上目遣いに3人を見た。
はともかく、他の2人は全く自分とは無関係な人間だ。
自分自身、家系の事情や自分の立場についてはよく知らされていないが、迷惑をかけてしまうことは確かな気がしてならなかった。
「のう、セブルス。君はどう思うかね?」
「……我輩は校長が良いと仰るのなら…」
「はっきり言えよ、セブルス。……まあ、断ったりしたら一生『スニベルス』呼ばわりしてやるけど」
「ッ―――……分かった」
首をはっきり縦に動かしたセブルスを見て、は満足そうにニヤリとすると、に目を移した。
恨めしそうに睨み付けてくる悪友は、完璧に無視だ。
「、お前の親父の信頼した人だ。俺も保証する」
「……わたし…」
こんなに、人に優しくされたことがあっただろうか?
生まれてから今まで、自分はきっと悪い子供なのだろうと、自分よりも不幸な子供などたくさんいるのだから耐えなければいけないと、言い続けてきた。
―――だから、唯一の理解者だった父の葬儀でも、涙は耐えた。
なのに、この人達はどうだろう?
自分を、支えてくれると、言っている。
「―――……、おいで」
「……ッ!」
言い知れない安堵感に、少女の瞳からブワッ、と、涙が溢れ出した。
「わた、し…ッ…いき、たいぃ…!」
はその様子を見てはじめは驚いていたが、安堵したように胸を撫で下ろすと、の銀糸の髪を指に絡めるように頭を撫でた。
何度かと逢ううちに打ち解けた少女は、幼いながらもどこか歳相応には見えない静寂さを持っていて。
声を上げて泣く少女は、歳相応の幼い少女に見え、は不思議と頬を緩めた。
『私は何も望まない。ただ―――ただ娘の幸せを……』
少女の見つめ続けていた闇の中に、月の光が柔らかに射し込み、泣き喚く少女を窓から穏やかに照らしていた。
泣かないで、愛しい娘。
(月の光にも、夜の闇にも)(君は愛されているから)