これは―――夢だ。
きっと、現実から逃げたいが為に私が造り上げた、勝手な空想だ。
勝手な、妄想にすぎない、はずだ。
病室の、あの清潔感溢れた真っ白な壁に描かれた、歪で真っ赤な文字も。
それを写す為に過度にたかれる、無数のカメラのフラッシュも。
広い病室の中を忙しなく行き交う、警察官や刑事の姿も。
真っ赤に染まった病室に、1つだけポツリと残る―――真っ赤に染まり上がったベッドに横たわる、人形と化した母も。
全て私の空想で、夢だ。
「―――……ッ」
そう苦し紛れの慰めを自分自身にひたすら言い聞かせながら、私は病室の入口の傍でしゃがみ込み、頭を抱えた。
薬品の、ツンと鼻を刺す臭い。
バタバタと、慌ただしく響く足音。
瞳を閉じても、視界を覆う赤。
―――鼻から侵入して頭にこびり付く、血の臭い。
もう、信じられないことだらけで頭が働かない。
何も信じられないし、この場の現状を信じたくもない。
何だ、あの病室は。
本来は白いはずの病室が、清潔感のある病室が、びっしりと書かれた真っ赤な文字で染め上げられて。
あれはまるで、大きな―――赤い、箱みたいな。
不安や恐怖、喪失感。
色々な想いが入り混じり、混乱する頭の中。
しかし、こんな状況でも涙1つ流さない自分の神経に、すごく腹が立った。
どうかしている、私は。
「……あー……君が被害者の娘さん?」
「……?」
そんな時、不意に耳へ届いた声に、伏せていた顔を少し上げた。
そこには、少しくたびれたスーツを纏った細身の男性が立っていて。
きっと、刑事だ。
その人は私が顔を上げたのを見て目の前に腰を屈めてきて、私と視線を合わせるよう見下ろす。
「今回は……その、残念だったね」
「……」
感情の読み取りにくい顔をした刑事だったが、言葉には温かみを感じて。
本当に、私のことを気遣ってくれていることは分かった。
しかし、私はただ、馬鹿みたいにその刑事を虚ろな目で見上げることしかできない。
言葉が、声が出ない。
今は、誰とも話す気にはなれなかった。
「名前、言える?」
「……」
「……ま、無理して話すこともないよ」
ずっと押し黙ったまま答えようとしない私に、刑事は優しくそう言うと、胸元から小さな黒い手帳を取り出す。
そして、私の目の前でそれを開いて見せた。
顔写真に、名前。
それに、警察の証。
「俺、警視庁捜査一課の笹塚衛士。……よろしく」
人に名前を聞く前に自分から名乗るべきだと、そう考えたのだろうか。
刑事―――笹塚衛士さんはそう言って、私の隣に腰を下してきた。
病院の廊下に腰を下している、刑事と私。
私が話し出すのを待っているのか、それとも単に休んでいるだけなのか。
笹塚さんは咥えていた煙草を深く吸い込むと、ふーっと長く紫煙を吐き出す。
一瞬、ふわりと香る煙草の匂い。
嗅ぎ覚えのあるその匂いに、その匂いをまとった人物を思い出して、思わず顔が引き攣ってしまった。
―――でも。
「……、」
「ん?」
「 、です。私の、名前…」
「……ちゃんね。綺麗で、いい名前じゃん」
何故か、自然と落ち着く心。
口はいつの間にか、勝手に自分の名前を紡いでいた。
何故だかは、分らないけれど。
この人から香る煙草の匂いと、この人の雰囲気で。
何となく、親近感が湧いたからだろうか。
「残念だけど、まだ色々と捜査中で犯人の手掛かりがない。でも…―――」
絶対見つけて、捕まえてあげるから。
不意に、隣で呟くようにそう言った笹塚さん。
その言葉に、胸の奥から込み上げる、何か。
「ッ……!」
「…ちゃん?」
痺れて。
凍りついて。
止まっていた全ての感覚が、笹塚さんの一言でゆっくりと動き出す。
「ッ……っさん……母さんッ…!」
「……」
ごめんね。
ごめんね。
助けてあげられなかった。
身体を蝕む病魔からも、魂を蝕む悪魔からも。
全てを奪われて、失くしたことに今やっと、気が付いて。
胸の奥底から湧き出るように、熱い熱い何かが、涙となって流れ出る。
「お母さんが、好きだったんだな」
「……ッ、うん」
「大事、だったんだな」
「う、ん…!」
嗚咽を堪えて、隣でボタボタと涙を拭うことなく流す私の横で、笹塚さんはただ静かに私に訊いてきた。
それに対し、私はただただ頷いて応えるだけ。
幸せだった。
私と父と、母と。
たった3人の家族だったけれど。
病弱で、入退院ばかり繰り返していた母だけれど。
私と父の―――確かな、宝。
「大事なもん失うのは、辛いよな」
そう言い終え、笹塚さんは私の頭にポンッ、と掌を乗せてきた。
その笹塚さんの言葉は、何だか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえて。
―――そして、笹塚さんの掌から伝わる、想い。
「……刑事さん、も」
「ん?」
漸く流れを止めた涙を服の袖で無理矢理拭うと、私は隣に座っている笹塚さんの顔を見上げる。
すると、笹塚さんは口に咥えていた煙草を手に移して、私を振り返る。
小さく首を傾げている笹塚さん。
そんな彼の気の抜けた目元を見上げて、私は口を開く。
「刑事さんも―――私と“同じ”、なんですね」
濃い隈の上に乗る瞳が、微かに見開かれる。
私はそれをただ見つめ返し、何となくおかしくなって薄く笑った。
それが、貴方と私の出逢いで。
全ての“始まり”だったね。
全てを変えて、渦巻いたそれは、私を巻き込んで進んでいく。
「―――……ッ!!」
慌ただしく駆け付けた父さんの声に安心して、止まったはずの涙がまた、ポロポロと流れ出した。
涙に、導かれる。
(愛しい貴女を失った)(流れた涙が出逢いをくれた)
*2009/11/05 加筆修正・再UP。